Mercedes-Benz本国ドイツ研修紀行

メルセデス・ベンツミュージアム

2人の天才

2人の天才が作り出した自動車

ゴットリープ・ダイムラー

ゴットリープ・ダイムラー
1834年3月17日―1900年3月6日

カール・ベンツ

カール・ベンツ
1844年11月25日―1929年4月4日


この創始者カール・ベンツとゴットリープ・ダイムラーの2人はライバル関係でした。 しかし、2人の考えは異なります。


カール・ベンツの名言
「私は蒸気機関車を鉄道の束縛から解き放ちたいと思ったのだ」
これがカール・ベンツが鉄道の世界から自動車の開発に乗り出した理由です。
線路上でしか走れない蒸気機関車をどこまでも走れるようにしたいと考えました。

一方のゴットリープ・ダイムラーは、
生涯パートナーであったヴィルヘルム・マイバッハと抱いた夢は
「あらゆる種類の移動機関に内蔵することが出来る小さな内燃機関を作り上げたい」でした。

“陸”と”空”と”海”のためのエンジンを作ることです。
(これを聞いて、何か思い付きましたか?思い付いた方はベルセデスベンツ通です。この答えは後ほど!)

ゴッドリープ・ダイムラー

Gottlieb Daimler

線路上を走る車 線路上を走る車資料 線路上を走る車スペック

これは線路の上を走る車です。時速20km/h 1.1馬力

船 船資料

その後は海になり、次に空になります。

飛行機エンジン 飛行機エンジン車資料 飛行機エンジンスペック

1888年に飛行機のエンジンも発明しました。
※ライト兄弟が1903年に飛行機による有人動力飛行を成功させる15年も前のことです。
この当時、飛行船も飛行機もありませんでした。これが空に飛んだ時、人々は“悪魔の仕業だ”と考えました。
ちょうど教会の近くに着陸したのですが、“悪魔が空から降りてきた”と言ったそうです。

1889年ダイムラーの自動車 1889年ダイムラーの自動車資料 1889年ダイムラーの自動車スペック

1889年こちらの車ですが、パリの展示会で紹介されたものです。
※日本は明治22年「大日本帝国憲法」が発布された年です。
この時展示されたものは、馬車でもなく、馬車の代わりでもなく、自動車になりました。
自転車のようなものですが、ハンドルが切れるようになりました。
エンジンがシートの下になります。シートにヒーターがあるようなものでした。これはV2エンジンです。
この車には冷却機もあります。
フランスのプジョーをご存知だと思いますが、1890年にこの自動車のライセンスを買いました。
そこでこのエンジンを自分の会社のプジョーに乗せました。
ですので、フランスの工業化、産業化に貢献したのもカール・ベンツとゴットリープ・ダイムラーです。
しかし、そのきっかけを作ったのはベルタ・ベンツでした。


ベルタ・ベンツ

ベルタ・ベンツ
1849年5月3日―1944年5月5日

カール・ベンツの妻です。1886年特許を取得してもカール・ベンツの自動車はまだ世間の認知度が低く、カール・ベンツの工場は開店休業の状態でした。
妻ベルタ・ベンツは、「夫の発明を世間に認めてもらいたい」と考え1888年8月5日、夫が寝ている間に二人の息子を連れ、夫が発明した自動車に乗りマンハイムの自宅を出発しました。向かった先はなんと100キロ以上も離れたベルタの母が住むプフォルツハイムでした。
当時の道は舗装されておらず、空気タイヤでもありません。道中の過酷さは余りあるものでした。ガソリンスタンドもない時代、薬局でシミ抜き用のベンジンを購入してそれを給油しながらベルタと息子達は旅を続けました。
やがて陽が暮れる頃104キロ離れたプフォルツハイムの町に到着すると、自動車の回りには人々が集まり、ベルタ達に賞賛の声を送ったそうです。
この成功を夫カール・ベンツに電報で伝えました。この時の速度(距離と時間)は当時の馬車で、10頭以上の馬を乗り換えなければならないほどのもので、この成功により夫の発明は世に知られるようになります。
同時に妻ベルタは世界初の女性ドライバーとして自動車長距離旅行の歴史に名を残すことになります。
今ではこのベルタの通ったであろう道が“ベルタ・ベンツ メモリアルルート”として残されております。

ベルタ・ベンツ メモリアルルート

しかも妻ベルタは100キロ以上を自動車で走行しただけではなく、夫カールへエンジニア的なアドバイスをしました。変速ギアが無かったこの自動車は、急な坂を自力で上ることが出来ませんでした。
そこで、夫カールにギアの追加を提案し、実際にその修正がなされました。
更に、時には自ら修理し、ブレーキにライニング(摩擦材)を付けることを考案しました。
いくつかの長い下り坂を経て、ベルタは靴屋に寄り、革をブレーキブロックに打ち付けるよう頼んだのでした。

ゴッドリープ・ダイムラー

Gottlieb Daimler

消防車 消防車資料 消防車スペック

7.0馬力の消防車

ロシアでシベリア鉄道の工事が始まる頃、消防車が作られます。
1分間に300Lの水を出すことが出来ました。これにより、消防士達は感激しました。
昔は32名の消防士達で消火活動を行っていましたが、この発明によりたった2名と1台で済むようになりました。
しかも出動するのに3分しかかかりませんでした。

カール・ベンツ

Karl Benz

1893年カール・ベンツの自動車 1893年カール・ベンツの自動車資料 1893年カール・ベンツの自動車スペック

ビクトリア 時速18km/h 3.0馬力

1893年のカール・ベンツが作った車です。“ビクトリア”という女性の名前が付けられます。
ベンツは最初からボディーも作りましたので、馬車というよりも自動車でした。
しかし、何故馬車のような形をしているか分かりますか?
買い手のお客様はまだ保守的で馬の代わりに自動車が欲しいと考えていたので、馬車にあえて似せたそうです。
このビクトリアには車軸があります。ですので、カーブを曲がることが出来ます。 そして真ん中にハンドルがあります。そして冷却機もあります。ガソリンよりも水の方をたくさん使用したそうです。エンジンを冷ますために、100キロごとに150Lの水が必要でした。
これは世界初の量産化した自動車です。6年間に1200台も量産しました。

1894年カール・ベンツの自動車 1894年カール・ベンツの自動車資料 1894年カール・ベンツの自動車スペック

時速20km/h 1.5馬力

1894年には世界初の大きな自動車工場に発展しました。それはベンツ社です。
日本にも輸入されたそうです。ご存知でしたか?

1895年カール・ベンツのバス 1895年カール・ベンツのバス資料 1895年カール・ベンツのバススペック

これは6人乗りのバスです。時速20km/h 5.0馬力

ゴッドリープ・ダイムラー

Gottlieb Daimler

1896年ビザビー 1896年ビザビー資料 1896年ビザビースペック

“Vis−a−Vis”ビザビー 時速18km/h 4.6馬力

第一回オリンピックがギリシャのアテネで開催された年に“Vis−a−Vis”ビザビーという自動車が作られます。
フランス語で“Vis−a−Vis”です。意味はFACE TO FACE 顔と顔を向き合うという意味です。 乗客とドライバーが向き合うということで“ビザビー”と言います。この自動車からハンドルが今と同じ丸になります。
世界初のタクシーが走った街はどこでしょうか? 答えはシュトゥットガルトです。 これよりももう少し良い仕様だったそうです。
3年後の1899年には、ニューヨークに100台ものタクシーが走ったそうです。

1898年世界で一番古いトラック 1898年世界で一番古いトラック資料 1898年世界で一番古いトラックスペック

時速12km/h 5.6馬力

1898年、ゴットリープ・ダイムラーが作った世界で一番古いトラックです。

カール・ベンツ

Karl Benz

1899年ドザドス 1899年ドザドス資料 1899年ドザドススペック

“DOS−A−DOS”ドザドス 時速35km/h 5.0馬力

1899年 カール・ベンツは“DOS−A−DOS”ドザドスを作ります。 ゴットリープ・ダイムラーが作ったビザビーとは反対で、乗客とドライバーが背中を合わせて乗るからです。

1899年V2エンジン  1899年V2エンジンスペック 

“ボクサーエンジン”V2エンジン 5.0馬力

1899年 今までと全く違う新しいエンジンをカール・ベンツは作ります。 このエンジンはポルシェにも使われています。
“ボクサーエンジン”です。V2エンジンです。1時間に35キロ走れるようになります。
この当時はボクサーエンジンと呼ばずコントラエンジンと呼んだそうです。

ゴットリープ・ダイムラーよりもカール・ベンツの方がたくさんボディーやエンジンを発明しました。

ガーデンハウスの設計図

ゴットリープ・ダイムラーとヴィルヘルム・マイバッハの工場が、ここメルセデスベンツミュージアムから3キロほど離れたカンシュタットという所で建造されましたが、これがそのガーデンハウスの設計図です。
別荘は第二次世界大戦時に空爆を受けてしまい、もうありませんが、ガーデンハウスは今でもあります。
2つの会社がライバル同士で存在しました。ダイムラー社とベンツ社です。


“メルセデス”という言葉はどこから来ているか分かりますか?
女性の名前です。ダイムラー社の一番のお得意様はオーストリア・ハンガリー帝国の領事エミール・イェリネックという人でした。 1897年 ダイムラー社から自動車を買ってそれを自分で売ろうと考えました。

領事エミール・イェリネック

カーレース

領事エミール・イェリネックは、車が大好きで、写真のように専属の運転手を隣に乗せ、自分で運転していたそうです。
いつでも自分で運転していたので、運転手さんの仕事はタイヤ交換だけでした。

そしてこの領事、スピード狂だったそうで、カーレースに何回も参加をしました。フランスではカーレースが大人気でした。

しかもこの領事は自分がドライバーとなりレースに参加したそうです。しかし、オーストリア・ハンガリー帝国の領事ですから、自分の名前で出場し、負けてしまうと大変な事になってしまいます。そこで、匿名で参加します。
その当時、領事エミール・イェリネックの末娘“メルセデス”という名前で参加し、 ドライバー名は“ムッシュ・メルセデス”となりました。
領事エミール・イェリネックは、「前輪が小さく後輪が大きいので不安定だ」「乗客が乗る所はかなり上になり、バランスが悪く転倒する」このような不満を持っていました。その事を伝えるべく、領事エミール・イェリネックはシュトゥットガルトに赴き、ヴィルヘルム・マイバッハに“もっと安全な車を作るように”と指示をしました。

領事エミール・イェリネックとその末娘 メルセデス

そして、領事エミール・イェリネックが出した条件は

・ 安全であること
・ スピーディーであること
・ “メルセデス”という名を自動車に付けること


そこから“メルセデス”という車名になりました。3つ目の条件は愛娘メルセデスが父親にしたお願いでした。

ゴッドリープ・ダイムラー

Gottlieb Daimler

1902年 最初のメルセデス 1902年 最初のメルセデス 正面 1902年 最初のメルセデススペック

時速80km/h 40馬力

これが最初のメルセデスです。 世界で一番美しく、モダンな車がこちらです。1902年の自動車です。
ディズニー映画に出てきそうな車です。この博物館で一番美しく大切な車です。
世界どこに行ってもこれ以上に美しいメルセデスは存在しません。

そして、今までの自動車と違う点がたくさんあります。
当然馬車型ではありませんし、領事の条件であった前輪と後輪の大きさが同じです。
そして空気タイヤになりました。このことによりとても耐久性が向上しました。

更にヴィルヘルム・マイバッハの発明ですが、現代の自動車に活かされている点があります。
それは冷却機ラジエターがフロントグリルの後ろに配置し冷却するという点です。
このことで150Lの水は必要なくなりました。わずか9Lで十分になります。
しかもスピーディーになり、時速80キロ、40馬力出るようになりました。

領事が出した3つの条件が全て満たされました。この成功でヴィルヘルム・マイバッハは自動車というのはどのように製造するかを世界中に発信したのです。

カール・ベンツ

Karl Benz

最初のベンツ 最初のベンツ後部

一方のライバル社であるベンツはどうしているかというと・・・・ ベンツ社はほとんど倒産状態でありました。
その理由は人々の間でメルセデスを持つことがステータスとなったからです。
ベンツ社は生き残る策としてメルセデスのコピーをしました。

ゴッドリープ・ダイムラー

Gottlieb Daimler

世界初の“Sクラス” 世界初の“Sクラス”

これが世界初の“Sクラス”です。領事エミール・イェリネックの自家用車です。
4輪の小さなホテルのようなものです。旅行する際の移動型デラックスルームといった感じです。

1923年メルセデス社製のスポーツカー 1923年メルセデス社製のスポーツカースペック

1923年メルセデス社製のスポーツカー 時速110km/h 40馬力

1928年メルセデス社製のスポーツカー 1928年メルセデス社製のスポーツカー 1923年メルセデス社製のスポーツカー

1923年メルセデス社製のスポーツカー 1923年メルセデス社製のスポーツカー 1923年メルセデス社製のスポーツカースペック

1928年メルセデス社製のスポーツカー 時速110km/h 40馬力

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